「香取の海  七世紀関東の国際交流」(制作中・仮原稿)


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 自然、そして異なった民族との共存共栄

万葉歌人が歌った香取の海。現在の霞ヶ浦。そこは古来より新羅、百済、高句麗、
あるいは、隋、唐からの入船、出船で賑わった交通の要であった。
現代日本のシュリーマンとの異名をとる K. 高島氏は、この香取の海を研究し
三十数年。地元の郷土史家だからこそできた定説を覆す、かずかずの発見をしてきた。
日本文化を霞ヶ浦から捉えなおし、発信するこの試みは、
環境保全の観点からも、これまでにない画期的なものとなるだろうし、
また、古代国家成立以前の国際協力の舞台であった霞ヶ浦に証明をあてることで、
日本と、その隣国との文化交流の役目も果たすことになろう、

以下は、その、画期的な成果の一端を紹介したレポートである。

 「霞ヶ浦における渡来人の足跡」

1、歴史を見直す意義について

日本の歴史の真実を明らかにすることにより、日本国内および他の国の歴史観を正す。
真実なる歴史を知ることにより、民族間の偏見をなくし、互いの幸福を願い協力し合う
新たな国際的な強力体制の基盤にしたい。

2、鹿嶋地方の渡来人
鹿嶋市周辺における渡来人は下の書籍より、記述した。

        参照 『常陸国風土記と古代地名』   鈴木建著  新読書社

行方

『行方郡』には、継体天皇の時代(500年前半)「郡より西の葦原を截ひ、墾闢きて新に
田に治りき」と見える。
『行方郡』には、天然湧水の記事がある。
「槻野の清泉に頓幸し、水に臨みてみ手を洗ひ、玉もちて井を栄へたまひき。今も
行方の里の中にありて、玉の清水と謂う。」

大生

「大生」には、タケミカツキ(タケカシマ)を祭神とする大生神社を中心とした百数十基の
古墳が確認されている。
大生神社は、大和の多神社の祭神である神八井耳命とその
後裔のタケカシマを、まつったと祀ったと大場磐雄は推定している。此れは、先祖の神
であるタケカシマを奉載して、多一族が西方から常陸に移住した事実を物語るものに
ほかならない。

茨城の国を征服したのは、建借間命と同族の「大臣(おほのおみ)の族黒坂命
(やからくろさかのみこと)」であり、「茨城の国造が初祖」は「多祁許呂命(たけころの
みこと)」であった。
軍事的支配者とその後をひき継ぐ政治的支配者とは、強く連携しているはずであるから、
神八井耳命を遠祖とするオオの族黒坂命と、天津彦命を遠祖とする多祁許呂命とは
緊密な関係があったにちがいない。

高麗と高来

物部の奉斎神「普都大神」が来たという「高来の里」が信太郡にあった。かつて「物部郷」
であった福岡県浮羽郡吉井町生葉には、筑後の壁画古墳としてはもっとも古い日ノ岡
古墳を初めとして、船をモチーフとした壁画を持つ古墳がひしめいている。

 九州の壁画古墳は、ここを中心とした筑後と隣の肥後とに集中していて、そのルーツは
高句麗に求められる。筑後といえば、「物部部族最初の」といえるかどうかは別として、
すくなくとも、初期の「根拠地」であり、肥後はオオの一族「火の君」の支配地だ。
その壁画古墳が常陸にうつっていった。それは、壁画古墳の習俗を持った集団が
東進したことを示してはいないだろうか。そしてそれは、オオや物部であったろうとの
推測が成り立つはずだ。

 神奈川県中郡大磯町は、660年に高麗王若光の一族が高句麗から移住してきた地である。
そこに高麗神社があったが、1897年に高来神社と改名されたものの、
大字名には高麗がのこっており、裏山は今も高麗山である。そのことから、普都大神を
いただく信太郡の「高来の里」も同じく高句麗にルーツを持つ人たちの来住による命名と考えたい。
ということは、物部と高句麗とはただならぬ関係にあったということになる。「高久郷」の久も、
高来の来の当て字、類似の高木の木も、来の別訓キの当て字と考えることができよう。
肥前国佐賀郡高木邑がある。

那珂郡はかつてオオの支配地であった。

 常陸のそれは、玉につぐ美しい石が多いから多珂と名づけられたという説があるが、珂
には玉や白瑪瑙の意味があることからのこじつけである。しかい、『風土記』が高に多珂を持つ
好字打からであろう。

オオとタカ

オオと物部とは同じ仲間で、物部の出身は高句麗らしい。そして常陸では、オオや高句麗からの
足跡を示す地名が数多く残されていた。では、そのオオの出自はどこで、なぜオオと呼ばれたか。

「高句麗ko−kor(大国・大部落)があった。」

「高句麗という国名自体が実は」「大国」という高句麗語であった。

高句麗南下

では、朝鮮半島の最奥を母国とする彼らは、いつ、どこから、どういう動機で渡海してき
たのであろうか。

扶余の一部は紀元前1世紀の高句麗を建国した。彼らは鴨緑江中流右岸の現・中国側の
集安(シーアン)に都城を構築し、そこを中心に一万二千余基もの膨大な「石を積みて封と
為」す積石古墳を残してきた。

平壌のある徳興里古墳の石室に「馬射戯」図で、現在も鎌倉八幡宮でおこなわれて
いる流鏑馬の源流をそこに見ることができる。

玉造町三昧塚古墳の被葬者はすでにその地に君臨していた百済系の豪族であった
確立が高い。

ひたちなか市の虎塚古墳の文様とチブサン古墳や大塚古墳にもみることができる。

朝廷の全国統一の先兵として、高句麗にルーツを持ち九州北西部に本拠を構える
勇猛歩騎軍団が東国へ派遣された。東国平定後、兵士のある者はさらに北進軍に加わり、
ある人は陸奥進攻の兵站基地となったそこに定住した。この定住組は集落を造り、
さらに後続する同郷からの移住者を迎え入れながら、食料の生産や武器類の調達、
軍馬の飼育など、北進軍の後方支援を担当した。

常陸での、6世紀中ごろからと思われる騎兵の出現。6世紀後半からの馬具を伴う
石室墳の普及。7世紀前半からの古墳壁画の発生。これらの事実と、高句麗色の強い
地名の濃厚な分布とは、右のように考えることによってのみ結びつく。
そしてそれは、高句麗→
九州→東国という太い人の流れがなければ成り立たない
事象なのであった。

700年に百済王遠宝(百済系)が、704年に綏女朝臣が、、708年には安倍狛朝臣
(高句麗系)が常陸国守ににんめいされている。

 「香取地方について」

香取神宮周辺は多氏と思われる土器が発掘されている。香取神宮と多氏は関係して
いると推測する。

佐原区には安倍清明塚があった。

古墳時代この地域は海上国で石枕が古墳から出土している。石枕と玉造と関連が
ありそうに思う。

小見川区では長持ち型の石棺が出土した古墳がある。この小見川区は多くの古墳から
副葬品が出土しているので、どこの国に関連するか再考をする必要がある。

銚子は琥珀が出土し、鹿島地方はメノウが砂の中に堆積している。

瑪瑙・琥珀は古代交易ルートにおいても、貴重な交易品だった。これらを加工して交易に
利用したのではないか。

『法律家のみた日本古代千五百年史』    
           古代天皇制誕生までの過程   山中順雅著  図書刊行会

日本古代の歴史の真実を発見し、伝えることによって、社会正義の実現・国民の
人権擁護という弁護士の職責を遂行しようとするものである。
私は6世紀初めに
最大の領土を有していた継体王を現在の天皇氏族の始祖を考え、併せて、
独自の渡来史観の立場から論述したい。

紀元前1世紀〜3世紀

加羅地方は土地肥沃で五穀がよくできることは魏王朝にも知られていた。
稲作には農耕儀礼があって、人々は五月稲の植え付けが終わった時、10月稲の
借り入れがすんだ時、天神を祭って歌舞飲酒したと言われている。後者は中国周
王朝末からははじまった新嘗の祭の伝来であろう。

金官加羅の一部王族が4世紀前半ごろ福井平野に来て<越の国>を建国したと
以上推測できる。

紀元前100年ころには日本列島に渡来人の建てた国が100余国あって、
紀元266年までの360年間にわたって日本列島の王国のうち、30ばかりの王国が
中国の冊封体制下にあり、臣下として朝貢している。

4世紀〜5世紀

高句麗が楽浪郡・帯方郡・わいぱくを攻略し、また、高句麗と百済の戦争が何回かあった。
この戦乱のため、中国大陸や朝鮮半島から多くの人が日本列島へ亡命・渡来してきた。

6世紀〜7世紀

562年 新羅が大伽耶など加羅諸国を併合した。その遺民が大量に日本列島に亡命してきた。

607年 このころ百済・新羅から日本列島の倭国へ亡命。

彼ら亡命人の中の文化人・技術者らグループが古墳文化に代わる新たな文
化(飛鳥文化)を生み出していった。

7世紀〜8世紀

朝鮮半島からの大量渡来。

日本列島内の倭国をはじめ当時の国々は、中国大陸や朝鮮半島の人達からみれば彼らの
祖先が築いた国々であった。第一波の渡来人が国々を建てて渡来人国家の基礎を作って以来、
互いに戦闘・連合・併合・新興のより国の興亡があった。しかし渡来人が建国した国家であ
ることには変わりなく、これら国家の為政者も、いわば本国を持っていたことも容易に
推測できることである。
このような経過で日本列島へ渡来してきた、言葉も風習も生活も違う黄色人種の人達が、
8世紀の初めごろまでに
混血してある1つの新しい民族を形成したものと思うのである。

北部九州は高句麗の王族が来て<クニ>をつくったと考えられる。

<熊神>信仰の民族である馬韓族が日本列島に渡来して、定着。

越族は剣が好きな民族で、剣政策の技術はゆうめいである。

造船技術と航海技術が高度。北陸地方に渡来した可能性がある。

宮崎県東臼杵郡南郷村の神門神社の祭神は百済の王族である。

朝鮮半島系の神社(鹿嶋、香取地方関連)

諏訪大社 (新羅系)

熊野那智神社(朝鮮系)

八坂神社(高句麗系)

松尾神社(新羅・加羅系)

大王(後の天皇)は出自の金加羅の<氏>を用いていた。ところで、
金官加羅の建国神話は<首露王の降臨神話>である。

『記・紀』編集の時、天皇の<氏>を抹殺したのではないか。

中国や朝鮮半島で、幾多の国家興亡のあることを知り、それは人が人を支配することから
起こることであり、神が人を支配すれば永遠の国家が生まれると考えたのではないか、
と私は創造してみるのである。


                          「香取の海」復元 実行委員会


「コラム T」
常陸の国造の先祖は、建借間命(たけかしまのみこと)なのか?
水戸市内にその墓といわれている前方後円墳がある。
建借間命(たけかしまのみこと)は、土地の蛮族らしい。当時、 
クズとか、土蜘蛛とか、いわれた人々を討伐し、
今の行方郡(鹿島神宮のすぐ隣)に凱旋してきた。
常陸風土記にでている話だ。要するに、常陸の国造の、
元祖である建借間命が、常陸一円を統一し、鹿島神宮近くへ凱旋してきた。
「かしま」という同じ名前を持っている建借間命が、 鹿島神宮まで支配を及ぼしていたのだ。

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